加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
20.私は“バケモノ”とも言われましたが
早朝でも深夜でも
お見送りはかかしませんでした

味のおもてなし
【造り】
伊勢海老 鰤 甘海老
活梅貝 山葵
私のことを“化けもの”とうわさされていた時もあったようです。早朝でも深夜でもお客様のお見送りを欠かさなかったことから、「よく体が持つものだ」といわれ、それが誇張されて「夜も寝ないでがんばっている」になり、ついに「化けものや」といわれるようになったらしいのです。
確かに、朝早くおたちになるお客様がある日には、前夜から寝ないでいることもあり、深夜の場合は、目をこすってでも頑張りました。ただ、そうしないと私の気がおさまらないからで、それ程意識してやっているわけではありませんでした。私のクセのひとつとでもお思いになって、気になさらないでいただきたかったのですが、なかなかそうは見ていただけなかったようです。まあ化けものなら化けものでもいい……とあきらめて、フテくされていた次第でした。
「いらっしゃいませ」という私の特徴ある声をテレビかラジオのコマーシャルに使おうと、むすこたちが相談していたことがあるそうです。まったくひどい話です。私のお客様に対する自然に出てきた気持ちを、そんな形で使われては困るのです。化けものは化けものになりきってしまったために、加賀屋の看板になってしまったのでしょうか。
夫と夫婦というコンビを
組めたことを感謝しています
比べて夫は、能登の美しさに魅せられ、その美しさをひとりでも多くの人に知ってもらいたいという夢に生涯を賭けていました。夢をただの夢に終らせず、次々と形にしていく人でした。
私が加賀屋に嫁いだ頃のはなしですが、部屋数も二十室という小さな旅館だったこともありますが、その頃はお客様に合わせて仕込みをしていました。数も少なかったせいもあるのかも知れませんが、椎茸の数まで記憶して業者を驚かすといったほど、数字に強い人でもありました。
増築のために借金をする時も、まあこれくらい借りても返済できるだろうというおおまかな計算ではなく、この部屋の回転率は七十パーセントだからいくら、この部屋は六十パーセントだからいくら……合計するとこれくらいになるから、この金額まで借金できるという緻密な計算のできる人でした。実際、数字通りになるのですから、私は安心して、計算はすべて夫まかせでした。
ですから、夫が「やろう」とうなずいたことは、必ず成功すると、いつか私は思い込んでいたのです。戦後、呼帆荘を建てた時も、「忘却の花びら」の映画の時もそうですが、夫は、数字で計算できないもうひとつの世界があることをちゃんと知っている人でもありました。
そんな夫と夫婦というコンビを組めたことを心から感謝しています。おかげで私は、楽しく、苦労はあっても退屈せずイキイキと暮してきました。私が楽天家だといわれるのも、主人の大きな力が、私を支えてくれたからだと思っています。