加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
19.感涙とともに両陛下をお迎え。
どうやら一流といわれる
旅館への仲間入り
味のおもてなし
【付出し】
鮑吹寄せ盛/青銀杏 しめじ
栗 沢蟹
無我夢中で働きつめた戦後の十年間のおかげで、加賀屋は、和倉温泉の一流といわれる旅館の中に入ることができました。
そんなところへ、天皇、皇后両陛下が十月二十二、二十三日の二泊でお泊りになるという内意が伝えられました。昭和三十三年の梅雨どきだったと、はっきり記憶しています。古い人間と思われるかもしれませんが、ただただ感激して、身ぶるいしたのを覚えています。
それまでの普通の考えからすれば、新しいものを建ててお迎えすべきでしょうが、前年の暮れに竜宮閣が完成したばかりでしたので、そこを使うことにしたのですが、お部屋の装飾、ご接待はどうしようか、どのようにしたらご満足いただけるだろうというようなことを考え続け、自分自身さえも忘れてしまいそうな日々であったのが、この時の偽らざる心境でした。
ご来県の二十日程前、日程が本決りとなり、侍従の入江さん(後に侍従長、故人)や、随行の方、県の係官の方々などが下見に見えられ、「何も特別のことをしなくともいい。そのままの姿でいい」と強く念をおされました。しかし、お泊りいただけるからには、能登観光のためにもご満足いただけるようにすることは当然のつとめである―と、以後は、竜宮閣へのお客様の宿泊はお断りし、清掃、補修にとりかかりました。
「万葉の間」をお使いいただくことにして、総檜造りの浴場を設けました。あたりの風景をご覧いただけるよう物見台もつくりました。これが大変お気に召されたと、後でお伺いいたしました。
海苔はいづこ…
それはもう大変な歓迎ぶりで、沿道に沢山の人が並びました。船では、『いで湯太鼓』を打ちならし、陸では、『七尾まだら』や『石崎の奉灯』が舞うなど、とても賑やかでした。
両陛下はベランダにお出ましになられ、天皇陛下は白、皇后様は赤の提灯を高く挙げられ、歓迎に応えられました。たいへん寒い日でして、長時間ベランダにお出ましだったので、両陛下のお身体にさわりはしまいかと思いましたが、その真摯なお姿には、心打たれました。
「お料理は、あまり手を加えないようなものがお気に召される」と、事前に聞いていましたので、そのように心がけ、当時の料理長であった竹田さん(故人)と、十数回試作をこころみたりしました。
お膳やお椀などは輪島漆器の人間国宝、前大峰さん(故人)や、ほかの方々に特別お心を配っていただきました。また、漆かぶれのようなことがあってはたいへんと、米糖で何回もふきました。九谷焼は浅蔵五十吉さん(芸術院会員)にお願いしました。その鉢、皿類が実に鮮やかなのが、両陛下のお目にとまり「美しい」とお喜びいただいたということを、おつきの方から聞かされました。
私どもでは、御膳を差しあげる前に御献立を―。たとえば刺身ならワサビ、ノリといったものまで記して差しあげていました。両陛下はその献立表とあわせてお召しあがりになられたようです。
ところが、ケンのために浅草ノリを水に浸したものをおつけする筈でしたが、板場さんが緊張のあまりつけ忘れたものですから、陛下は、「ノリというのはどれですか」と、ご質問になられました。ノリをつけ忘れただけのことでしたので、すぐお持ちしてことなきを得ましたが、「つけ忘れました」ともいえずに、冷汗ものでした。
夫は“モーニングを着た三助”
掃除まで一切やりました
二十三日は奥能登に向かわれ、穴水から三井のアテの林をご覧になられ、輪島を経て和倉にお帰りになり、もう一泊なされました。
夫は万が一のことがあっては取り返しがつかないことになると思い、モーニングを着たまま、お湯かげんはもちろん、掃除まで一切やりました。浴室の横にわざわざ不寝番をする部屋をつくりお世話を致しました。“モーニングを着た三助”は、後年、杉森久英先生の『天皇の料理番』にも取り上げられるほどで、まあ、珍風景だったんでしょうね。
二十四日の朝、両陛下がお発ちになられる時、従業員、家族一同のものが玄関に並んでお見送りを申しあげたのですが、陛下が私の前に、皇后様が、夫の前にお立ちになり、やさしいねぎらいのおことばをいただきました。私ごときにもったいないと思った途端、自分を押さえることができず、思わず大きな声で泣いてしまいました。それにつられたのか、みんな一斉に声をあげての嗚咽となり、何をおっしゃられたのかよくわからず、翌日の新聞を見て、わかったような次第でした。
嫁いで三十年目だったと思いますが、ただ何ともいえないありがたい気持ちでいっぱいだったのです。