加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
16.呼帆荘の名付け親はおまわりさん
加賀屋の人気を
不動のものにした
呼帆荘の建築
味のおもてなし
【刺身】
鰤 甘海老 活梅貝
烏賊花造り 車海老洗い
生雲丹 山葵
加賀屋の人気を高めたものともいえる呼帆荘は、昭和二十五年五月に完成しました。洋間のローズ、和洋折衷のリリー、すみれ、ぼたん、ゆめなど合計二十九室。いっぱいになりますと百人位のお客様が収容できました。この計画は、私が嫁いでくる以前、昭和十一年にすでに基礎工事を終えていて、材木も一部ととのっていたのですが、戦時中に旅館の新建築などできるはずがなく、延び延びになっていたのです。終戦を迎えましたので、基礎もでき、資材もあることですので、時代に対応すべきデラックスなものをと建築にかかることにしました。
しかし、釘もガラスも容易に手に入らず、しかも十五坪以上の建築はまかりならぬという厳しい規則もあり、建設大臣の認可が必要とされていました。
それで、昔からよく村の家へ来たり、奥能登からの帰りには宿をとられたりして存じあげていました衆議院の益谷先生に、「何とか建てられるようお力添えしていただけませんか」と、会うたびに与之正のみならず私もいっしょになって相談しました。この頃には商売の楽しさもわかってきて、とにかく新しいものをすぐにというのが、せっかちな私の心境でした。
益谷先生は相談のたびに、重厚な表情で、「待ちなっしゃい。もうちょっとたつと、いいがになるちゃ」といわれるだけでした。しばらくすると、益谷先生は建設大臣に就任。「もうちょっと待て」といわれた意味がわかりました。
呼帆荘はまさに
“お父さん”の手造り
夫は下馬評を耳にして、心中期するものがあったようで、早速上京し、先生を訪ねていきました。「物には順序がある。まず担当の課長にお前さんの考えていることをいってブチあたれ。それが駄目なら、最後に私があたる」という益谷先生のことばに勇気づけられた夫は、「十五坪以上は建築できない時代に、旅館とはなにごとだ」とケンもほろろの課長を相手に一歩も譲らなかったそうです。
「ただ金儲けのためにお願いしているのではありません。能登半島の機雷処理のために外国人が五、六人泊まっています。満足な設備ではないし、泥棒にも悩まされているのです。進駐軍が、日本人のために機雷処理に来てくれているのに、盗難にあったら国辱ですから、別棟でお泊めしたいのです」
「じゃ、こんな広いものはいるまい」
「もちろん日本人が使うのなら小さくてもよいのですが、日本情緒を味わっていただくためには、せめてこのくらいの大きさが必要なのです」
といった説明を積んだり、崩したりで、何回通ったことでしょうか。結局は益谷先生の大変なご助力をいただき、許可を得ることができました。
次は金策です。旧円が封鎖されて、新円が出たばかりなので、持ち金はゼロ。担保だけでは銀行もお金を貸してくれない時代でした。困った夫は、親戚の酒屋に頼み、そこの翌月納めるべき酒税をちょっと借りて、それを見せ金として、銀行からお金を借りたのです。
当時としてはぜいを凝らしたもので、名前もその頃では珍しく公募という形をとり、「呼帆荘」と名づけました。たしか一等をとられたのは、お巡りさんだったはずです。