加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
14.女中さん、部屋にこもる。
いい女中さんを揃えたいと、
厳しいくらいに教えこみました

味のおもてなし
【祝肴】
鯛唐蒸し
陸軍の保安所だったこともあって、戦争が終ってすぐに、旅館の体裁をしていたのは、うちぐらいでしたので、住友セメントさんや海陸さんなど、七尾の大きな会社でお客様を接待する時、うちをご利用になることになりました。
やむを得ずうちへ来られたわけで、部屋のつくりの悪いこともあって、初めは「こんなところに泊らんならんのか」という風でした。それまでは和倉温泉でも超一流の旅館ばかりをご利用のお客様でしたから、“この機になんとかして、うちのお客様になっていただけたら……”と、必死で応対したものです。
しかし、かんじんのいい女中さんがいません。他の旅館さんには、年増のしっとりとしたいい女中さんが揃っていました。うちではちょっといい人が入っても、すぐよそへ行ってしまうといった状態が続いていて、何としてもいい女中さんを揃えたいというのが、一番の願いでした。いい女中さんになって欲しいという一念が強すぎたのか、少し厳しすぎたのかもしれません。
行儀の悪い女中さんにはお客様の前でもどなりつけましたし、間にあわない人には、後から押し倒して「こんな風にしぃ」といって教えたりもしました。
その頃、おばあちゃん(夫・与之正の姉のとよさん)も一緒に仕事をしていまして、おばあちゃんがまた、細かい、厳しい人で、よく注意をしてくれていました。
何の時でしたか、二人で何かいったのでしょう。「あんまりにもうっさい。いじくらしい」と、いって、女中さんたちが部屋にこもってしまいました。今で言うストライキです。
“女中さんは宝”を信条としていた私には、この時程、ショックだったことはありません。やむなく夜もほとんど寝ないで働きました。人を教えるむずかしさをつくづく思い、「こんな失敗を二度としてはいけない」と、心に誓ったのです。
親しき仲にも礼儀
教育は環境で
決まるもの…痛感
ちょうどその頃、柳子さんという人が、うちへ入りました。東京は新橋で芸者をしていた人で、著名人の愛人だったということでした。田鶴浜町に親戚があり、東京から疎開してきて、人の紹介でうちへ勤めるようになりました。私よりちょっと上で四十すぎだったと思います。
さすが礼儀作法、しつけがきちんとしていて、帯でもきれいに結んで、それは粋な人でした。ことばも標準語ですし、和倉では目立ってアカ抜けした人で、入ってすぐに女中頭となり、接客の方法について厳しく教えてくれました。とにかく妥協のない厳しい人で、ビシビシ教えこむので、私より柳子さんの方をみんな恐ろしがっていたようです。「どっちが奥さんかわからん」といわれたほどでした。私は病気をしたりして、少しの間休んだのですが、柳子さんが客廻りを、ひな子さん(宿守屋寿苑の先代女将さん)が帳場をキリモリしてくれていましたので、何の心配もなかったほどです。柳子さんは十年ほど勤めて、東京で「末広」という料理屋を開いたと聞きました。
柳子さんが教えてくれた接客法は、私の中にも大きな影響を与えてくれましたし、現在の加賀屋の中にも生き続けています。