加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
12.戦時中も細々ながら旅館経営が。
陸軍・海軍のお客さま
お国のために…と奉仕
味のおもてなし
【先附】
七夕まつり/
蒸し鮑黄味酢掛け
スティック野菜 青梅 梅酒
戦争が激しくなるにつれて、他地区の温泉では遊休旅館が増え、転廃業をよぎなくされ、ミシンなどを据えつけて、ズボンやシャツの軍需品をつくる工場になったところもあったようです。幸い和倉温泉は、湯の効能が大きかったことや、これまで、遊興的ではなく保養本位の旅館ばかりでしたので、細々ながら商売を続けていくことができました。
昭和十九年の秋頃、和倉温泉の旅館全部が舞鶴の海軍の療養所となりました。二十余軒の旅館の客室は、病室となり、傷病兵さんであふれていました。翌年の春頃だったと思いますが、陸軍九師団の師団長の井関さん、副官の上村さんが能登島での軍務帰りに、加賀屋にお泊まりになられた時のことです。その時、海軍の軍人さんたちの姿が見えたものですから、「海軍の療養所になっているのですよ」と、お話ししますと、「陸軍で利用したい」とおっしゃられ、ちょうど、義兄が九師団本部に勤めていたこともあって、陸軍の特別利用施設を受け、将校の保安所となりました。
療養所ではなくなったので、一般のお客様も利用できるようになったのですが、お見舞いにいらっしゃる傷病兵の家族の方などで、一般の湯治客は、ほとんどいらっしゃいませんでした。といいましても、このような形であっても、営業ができましたのは、当時としては恵まれた方でした。
私は快く泊まっていただくことで、お国のために役立っているという心の張りを感じて、ことのほか、一所懸命にサービスをしました。戦後になって、当時のお客さまが、「あの時は世話になったね」と、ずいぶん来てくださいました。また、「能登へ行くなら和倉の加賀屋」と口伝えの紹介も多く、本当にありがたい思いでいっぱいでした。
そんなことが、戦後の躍進の出発点にもなっていったのかもしれません。と同時に、夫も私もサービスはその場だけでなく、それ以後の長い年月に影響を与えるものだと、強く知らされたのです。『お客様が必ずまた来てくれる旅館』をと、心懸けはじめたのです。
お客様が必ずまた
来てくれる旅館になりたい
終戦近くになりますと、七尾には沢山の疎開した兵隊―暁部隊が来たり、六月頃からは、チョクチョク軍艦も入ってきたりと、なんとなく騒然とした気配が漂っていました。そのうち、兵隊さんたちが上陸しはじめ、お酒など民間では見られない時に、灘の月桂冠などを持っていました。一升瓶に麦ワラのツトをかぶせてあるのですが、軍艦の底にでも積んであったものなのでしょうか、包み紙もラベルも見えないくらいに虫が喰って、ボロボロになったものでした。
中にはヤケクソになったのか「オレたちは命をすてたのや、酒をあるだけ飲ませんか」などとおどす方もいらっしゃり、大変恐い思いをしたこともありました。東北あたりの農村に帰る人たちでしょうか、「別れの会をするから部屋を貸して欲しい」といわれ、食べ物や、わずかばかりの酒を持ちよって、ささやかな決別の宴を張る方もありました。
私は「お国のためにご苦労さま」と、ただ同然で使っていただきました。八月十五日から、末まで、そんな兵隊さんがよく見えられました。