加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
10.お客様の座布団に座った女将。
石橋をたたいても渡らぬ夫と
盲ヘビにも怖じずの私・・・

味のおもてなし
【前菜】
蒸し鮑黄味酢掛け
合鴨ロースグリーンアスパラ
車海老 酢蓮根 煮凍り
<おことわり>
この随筆には、倫理上不適切な表現を使用している箇所がありますが、作者の意図を尊重して、原文のまま掲載いたしております。なにとぞご了承ください。
当時(昭和十四年)の加賀屋は、部屋数二十、番頭さんが一人、板場さん二人、流し場をする人が二人、女中さんが七人。お客様はいっぱいになるといっても六十人も入りましたかね。明治三十九年に先代・与吉郎が開業した時は、十二室、三十人だったといいますから、ほぼ二倍に拡張されたことになります。とはいうものの、和倉温泉にはほかに伝統のある立派な旅館がたくさんあり、古ぼけた木造三階建ての加賀屋などは、目立たないちっぽけなものでした。
大きな家に毛がはえた程度の旅館ですから、一度のお見合いで、夫の性格も何も知らないままに“お嫁さん”になった私は、新婚旅行など望むべくもなく、結婚式の翌日からさっそく“おかみさん”として、駆けずり回らなければなりませんでした。
夫の性格は、『石橋をたたいても渡らぬ』ほどの慎重派、私は『盲ヘビに怖じず』といった風で、がむしゃらに何にでも手を出す行動派と正反対でした。一方では、人の言うことをよく聞くことにしようと私は、アイディアマンの夫の意見を尊重しながらやってきました。先代の与吉郎が企画型、義母・乃へが実行型だったという“加賀屋の伝統”が、そのまま受け継がれたのかしらね・・・・・・。
おかみ修行中のある日、
夫から大目玉をくらいました
何もわからない私は、お客様の前へ出るのが怖ろしくて怖ろしくて、最初の一週間位は、前掛け姿で帳場や板前さんの手伝いをしていました。そして、はじめて玄関でお客様のお見送りをした時、笑うに笑えない大失敗をしたのです。
当時は、玄関口のお客様が靴を履き替える際腰をおろす所に、赤い座布団が並べてありました。聞くこともすることも全て初めての私は、たまたま娘心配で来ていた父に、「この座布団は何のためにあるがかね」と尋ねると、私の身を思ってのこともあったのでしょうが「お前が座ってお迎え、お見送りするがやろ」と答えました。私は何疑うことなく、座布団のひとつに座り、帰りのお客様に挨拶していたのです。そうしていたところ、「そこは、お前の座るところではない。お客さんの座るところだ」と、夫から大目玉をくらいました。来ていた実家の父は、バツが悪くなったのか、その日は泊まらずに帰ってしまいました。万事そんな風でしたが、とにかくがむしゃらに働きました。女中さん、板場さんはみな家族という仲間意識が私にはあって、“おかみさん”などという肩書きはかなぐり捨て、寝るのも起きるのも、みんなと同じ生活をしました。お客様に対しては一人前の『おかみ』の顔をしながら、実際には『おかみ修行中』の毎日だったわけです……。
その頃、番頭をしておられたのが、故松田佐太郎さんでした。現在の寿苑(能登ビューホテル寿苑)の先代さんです。その人がお申しこみの受け付けなど、いっさいキリモリしていて、私に一から『おかみ業』を教えてくださいました。昔の旅館は常連客が多いので、お客様の人柄や癖をわきまえた上で応対しなければいけませんでした。佐太郎さんは、各部屋の前まで付き添ってくれて「このお客さんは、こんな人やから、挨拶はこんな風に」と、手にとるように新米おかみをリードしてくれたのです。