加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
09.身体がキツイぞ、大丈夫か? -卒業・結婚-
結婚式の最中に
赤紙が舞いこんで…

味のおもてなし
【食前酒】
梅酒
そうして卒業(昭和六年)―。“箱入り娘”の私を待っていたのは、父のいうところの“女として必要なお茶や生け花”などのおけいこ事でした。でも、それもしばらくの間。金沢の青草問屋の若主人との縁談がまとまり、嫁ぐことになったのです。時に十九歳。
まったくの世間知らずでしたが、「そんなもんだ」という父のことばに励まされ、文金高島田打ち掛け姿で、おそるおそる式場へ向いました。型どおりの結婚式。ところが、まったく思いもかけないことが起こったのです。
式場は花婿さんの家の座敷で、両側に両家の親類縁者の人たちがズラリと並び、かなり盛大なものでした。緊張の連続だった式もそろそろ終りに近づき、少し気もゆるみかけた時です。
正面の戸を開けて、軍服姿の若い軍人さんが入ってきたのです。それまでなんとなくざわめいていた式場が、一瞬にして静まりかえりました。「ただいま、お国に召されました」と、敬礼しながら大声で告げる軍人さんの顔を見て、私は、息がとまるほどびっくりしました。なんと、軍人さんは、つい先まで私の横にいた花婿さんだったのです。十九歳の私には、何が起こったのかとっさに判断がつきませんでした。続いて起こった蜂の巣をつついたような騒ぎの中で、私はただじっとうつむいているだけでした。
結婚式の最中に赤紙が舞いこんだのです。父からそのことを知らされた私は、なすすべもなく、その場に立ちつくしていました。親類、縁者の人たちがなんとなくざわめいていたのは、赤紙が届いたことを、花嫁である私に知らせるべきかどうかと相談していたためでした。あまりに突然のことにみんながうろたえている間に、花婿さんはサッサと紋付きハカマを軍服に着替えてしまっていたのです。赤紙を受け取った花婿さんが、いつの間にか自分の横から姿を消しているのにも気づかないほど、私は緊張していたのです。
翌々日、花婿さんは金沢の第九師団七連隊におもむきました。
七連隊に入った花婿さんは、上海事変にかり出され、一年程して背中に貫通銃創を受けて帰って参りました。不意の高熱に悩まされたり、肋膜炎を併発したりで、闘病生活は苦しいものでした。私は、お医者さんから治療法を教わりながら看病に努めましたが、運命の神は味方してくれず、七年間の闘病生活ののち亡くなってしまいました。
未亡人となった私は、昔の風習で津幡の実家へ帰り、再び村の娘として日々を送ることになりました。あまりにも急激にいろいろなことが起こったため、気持ちの整理をすることが、私にとって必要なことでした。
箱入り娘の私
加賀屋に嫁いできました
昭和十四年の春、再び見合いの話が持ちこまれました。相手は加賀屋の若だんな・与之正でした。やはり、数年前に病気で奥さんを亡くされ、二人の女の子がいると聞かされていました。その頃には落ちつきを取り戻していた私は「いつまでもひとりでいても―」という周囲のすすめにのったのです。
津幡の私の親戚の家が見合いの場所でした。私には父がついておりましたが、与之正は一人でした。その時の様子はほとんど忘れましたが、「体がきついぞ、大丈夫か」と与之正に聞かれたことだけは、今も頭に残っています。
当時は世間一般がそうでしたが、見合いといっても形式だけで、私がどうのこうのいえるものではありませんでした。祖父が加賀屋を常宿にしており、与之正ともつき合いがあり、そんなところから、話がでたのだろうと思いますが、私は、当然のことのように嫁ぐことが決まったのです。
あとで聞いてわかったことなのですが、与之正は、「もっと若い人を―」と、思っていたそうです。ところが二女の梅子さんが、私の写真を見て「この人がいい」と決めてしまったそうで、子供に甘い与之正は、ついつい心を動かされたということらしいのです。
結婚はその年の六月。二人とも再婚ということで、式は内輪だけですませました。幼い頃、湯治客として来た私が、その加賀屋で式をあげ、そこのおかみさんになったわけです。箱入り娘として育った身には、人に頭をさげる客商売など、身内で見聞したこともなかったわけですが、今でも不思議なのは、その時、違う世界へ飛びこむ不安や、いやだとかいうそんな気持ちがまったくなく、まして“覚悟”といった大げさな気持ちなど、持たなかったことです。
夫、与之正三十五歳。私二十六歳。挨拶の仕方を習うことから始まり、今に至る私の加賀屋での生活が、その日から始まったのです。