加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
08.セーラー服のハイカラ女学生。
セーラー服と黒いストッキングに
町の人は振り返りました。
味のおもてなし
【椀物】
素麺 車海老 青菜 柚子
誕生したばかりの津幡女学校の制服は、赤いふちどりのある紺色のセーラー服でした。ちょうどハカマ姿からセーラー服への変り目でもあり、スカートから黒いストッキングの足を見せて町を行く私達の姿は、すれ違う人たちを振り返らせるほど、ハイカラなものでした。でも、そのハイカラさも表面だけのもので、少しでも長めの袖を着るとすぐに、「村佐の娘さんは……」と、近所の人たちから後指をさされるような時代でしたから、行動も慎重にならざるを得ませんでした。
そんな私達の一番の楽しみは、先生の家へ押しかけておしゃべりをすることでした。親しい今でいうクラスメートと誘い合わせて行くのですが、行き先は決まっていたのです。松村先生と尾崎先生。ともに体育の女の先生でしたが、学年の生徒数が五十人足らずの学校でしたから、このお二人は先生というよりも、私達にとっては姉さんのような存在でした。他愛のないおしゃべりの中で、私達は私達なりに青春を楽しんでいたのです。
好奇心の旺盛な私でしたが、
父の権限が絶対の時代でした
松村先生の下宿で、マージャンをしたこともあります。新しがり屋だった松村先生は、話題も豊富で、マージャンなども先生らしい遊びのひとつだったのでしょうが、好奇心が旺盛だった私はすぐに飛びついてしまい、先生から誘われると、どんな用事もほっぽり出して出かけていったものです。それなら今もマージャンができるかというと、それが全然ダメで、パイの種類さえ忘れています。どうも私たちのマージャンは、同じ字や絵を集めるだけの絵合わせのようなものだったようです。現在は松村先生、尾崎先生とも東京に住んでおられ、数年に一度は、なつかしくお逢いしております。
私は生まれつき体が弱く、大好きな先生だというのに、体育は一番苦手でした。皮肉なもんですね。それで、油絵の方へ走りだすことにしました。油絵を習うのに金沢に通えることが、ひとつの魅力となっていたことはいうまでもありません。週に一、二度でしたが時には四人姉妹が揃って行ったりもしました。
先生は飛鳥鉄夫さんという方で、市内の工業高校の美術担当をしていらっしゃいました。飛鳥先生に絵の面白さを教えられた私は、“美術学校でさらに勉強を―”と、思っていたのですが、「女には、もっとほかに学ぶべきことがある」との父の反対に断念せざるをえませんでした。妹達は随分と応援をしてくれたのですが、父親の権限が絶対の時代でしたからね。