加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
07.女系家族・四人姉妹の私。
政治の世界に生涯ささげた
実父の生き方に何を学ぶ…
味のおもてなし
【酢物】
ずわい蟹
私の父、村弥一は、民政党の代議士桜井兵五郎さんの“懐(ふところ)刀”といわれた人で、津幡町町長、県議をつとめた後も、七十歳で没するまで、選挙のたびに東奔西走する大の政治好きでした。
祖父の儀太郎も郡会議員を長年つとめた人で、村の家には、これらの関係の人が絶え間なく出入りし、それは賑やかなものでした。選挙ともなると、いろいろな人たちが入り込んでくるので、自分の家じゃないみたいに感じたものでした。
国の動きなどにそれほど関心があるわけでもない私が、NHKのニュースを毎日欠かさず、選挙のたびにテレビの前に座りこんで夜を明かすことが毎度であるのは、当時感じた熱っぽい雰囲気を、今でも忘れられないからなのでしょうかね。まわりの人は「選挙の結果で人脈をつかむ一流の経営術」と思い込んでいるようですが、勝てば小躍りして喜び、負ければふとんをかぶってくやし涙にくれていた父の面影を、なつかしく思い浮べているだけのことなのです…。
うちは、女ばかりの四人姉妹で、政治屋さんの父にとってはことのほか不満だったらしく、四人目の恭(舟田)が生まれた時、父は昼間から祝い酒ならぬやけ酒の上、フテ寝してしまったそうです。父を含めて六代に渡る養子縁組で、村の家は続いていたのです。その心中は察するに余りあるのですが、古今東西、こればかりはどうしようもありません。
小さい頃の私は、姉妹の中で
体も弱く手のかかる子でした
小さい頃、肋間神経痛を患うなど、体も細く弱かった私は、姉妹の中でも一番手のかかる子だったようです。七つか八つの時頭にできたできものがなかなか治らず、父に連れられて和倉温泉へ湯治に来たこともあります。同じ津幡出身ということで、父が常宿にしていたのが、『加賀屋』だったのです。しかし、その生涯の大半を、ここのおかみとして過ごすことになろうとは、思いもよらなかったことで、こじんまりとした温泉宿のうす暗い廊下を、頭にできものを作った小さな女の子が、チョコチョコ歩き回り、ゆく末、夫となるべき人と顔をあわせていたのかと思うと、おかしさがこみあげてくるとともに、運命の不思議さも感じます。
小学校を卒業した私は、地元の津幡高等女学校へ進みました。それまで女学校といえば金沢にしかなく、モダンでハイカラな金沢へ毎日通えることは心楽しいことと、幼な心をワクワクさせていたのですが、父が津幡に女学校を誘致したため、その夢を破られてしまいました。何度か「金沢の女学校へ行かせて」と、父にせがんだのですが、「女の学ぶことはただひとつ。家事全般だ。家事を学ぶのに津幡も金沢もない」と押し切られたのです。それまで、何でもいうことを聞きいれてくれた父の意外にがんこな一面に驚きましたが、女学校創設という大事業に一役かった町長としての体面もあったからなのでしょうね。こうしてなんの苦労も知らない“箱入り娘”はぜいたくな不満を口にしながら、上級学校へと進んだのです。