加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
06.アンチが十歳になったら津幡へ帰る―。
諸行無常とはいいますが
人間ははかないものです
味のおもてなし
【甘味】
葛きり 黒蜜
与吉郎の希望がかなって、“草履ばきで生活ができる商売”を始めたわけですが、乃へは百姓の娘であり、百姓こそは無上の仕事であるという観念に徹していましたので、和倉に移住しようということには反対で、ずいぶんいざこざもあったようです。が、“行く、行かない”の争いをしていてもラチがあかないとあきらめて、和倉へ出てきたのだそうです。
夫、与之正には姉が九人いましたが、男は夫一人、しかも末っ子で、乃へは「アンチ、アンチ」と呼び、可愛がり、「今は、お父さんがああいうからついてきたけれど、アンチが十になったら倉見に帰って百姓をする」と、口グセのようにいっていたそうです。が、だんだんと商売に興味もわいてきて、そうこうするうちに、“アンチが十になったら帰る”という夢もいつしか薄れ、商売に専念するようになったそうです。
商売がだんだんと軌道に乗り、大正三年には、離れ座敷を増築、二十室六十人の収容となりました。しかし、夫が十五の春(大正七年)、中学二年の時、与吉郎は風邪をこじらせたのがもとで、亡くなってしまいました。
草履をはいて庭の中を歩く商売がしたいという願いがかない、順調に発展しようという折りに…。諸行無常とはいいますが、人間ははかないものです。後年、夫は、父の心境を思いやって、ことあるごとに仏壇に合掌し、そっと涙していました。
十五才という若僧でしたが、旅館の経営者となったわけです。責任は重大ですから、学校も中退して、背水の陣で一家の心をひとつにして、商売繁栄にはげむことになったのです。しかし、気丈だった乃へも、その後しばらくして亡くなってしまいました。
三食付きで八十銭の頃、
「能登つばめ」という
週末列車を走らせました
夫にとって、はじめて増改築に着手したのは、大正十五年、二十一才の時だったそうです。何分にもはじめてのことであり、苦労も大変あったようですが、トンビを着て、下駄ばきで、山から山を材木集めに歩いたことなど、苦しい中にも、楽しかった思い出もあると、よく聞かされました。また、施工をお願いした松井組の棟梁・松井角平さんという方が、頭のいい腕のしっかりしたなかなかの人で、その時、建築についていろいろ教えられたことが、後になり、どんなに役立ったかしれないと、後生、深く感謝しておりました。
当時の宿泊料は、三食付きで八十銭だったそうです。現在のように一泊二食のお客様はなく、一週間か二週間という保養のためのお客様だったといいます。今の気忙しい時代に比べますと、羨しい限りですね。もっともお料理は、膳の上に四・五品つけるのが、せきのやまだったようです。
その頃の和倉温泉は、越中からのお客様が多く、富山県でもっていたようなものだったそうです。そこで、金沢からも来ていただこうと、昭和の初め頃に、「能登つばめ」という金沢―和倉間の週末列車を走らせたそうです。また、能登島の向田の向かいにある寺島に海水浴場や見晴らし台、茶屋などを、能登島汽船さんがおつくりになるなど、今と変らぬ観光開発が一体となり進められ、賑わいをみせていたそうです。そんな昭和十三年、与之正のもとへと嫁いできたわけです。