加賀屋の先代女将 小田孝が心を語る「元気でやってるかい」
04.加賀屋の出だから加賀屋と…。
明治の中頃すぎ、
和倉にも近代化の波が…
味のおもてなし
【先吸物】
土びん蒸し /松茸 車海老
絞りスダチ 他
明治も中頃を過ぎると、裏山を崩し、島までの海を埋めたて、大浴場をつくるなど、近代化の波は、和倉にも押し寄せてきました。ドイツで開かれた万国衛生博覧会で世界三等泉の成績を得たこともあって、評判はとみに上っていったそうです。
その和倉に浴客を運んだのは『おか蒸気』と『船』でした。金沢―矢田新(七尾)間を、おか蒸気が開通したのは明治三十一年です。それまで、加賀方面からのお客様は、津幡駅で乗り換え、七尾駅で降り、馬車や人力車、船で和倉にやってきたといいます。羽咋の駅で汽車を降り、気多の大社に参拝したり、邑知潟や眉丈山を右に左にながめながら人力車にゆられ、ゆっくり、のんびり和倉へ向かう方も多勢いたそうです。人々は、今のような急ぎ旅ではなく、過ぎゆく時間の中で旅を楽しんでいたのじゃないでしょうか。
当時、今は幻の鳥であります“朱鷺”が、美しいうすもも色の羽を広げ、優雅に飛び回っていたそうです。鹿島路あたりの森のそばを通ると、森がボゥーと白く見えるほど、朱鷺が、森いっぱいに眠っていたものだと、後年、土地の古老の方から聞かされました。
船は江戸時代から使われていましたが、船着き場が粗末で、多少波があると、接岸するのに苦労をしたそうです。そこで、かねてから和倉の湯をことのほか愛していた、穴水村川島の廻船問屋・七海屋海兵右衛門さんが、竪固な船着き場を私財を投げうち造ってくれたおかげで、上陸が容易となり、毎日、奥能登をはじめ、富山、直江津と、蒸気船による運航が出きるようになったのだそうです。
新参者の加賀屋の中に
能登らしさが浸みこんでいって…
竹の弾力を動力代りに使う『カズサ掘り』という工法で、はじめて泉源を掘りあてたのは、大正の中頃だそうです。それまでは、湯が池の中にどんよりたまっている状態でしたから、各旅館では、地下へ松丸太を引き、同じ水位の井戸を掘り、そこまでお湯を誘導し、そこから手桶でくんで、トイで湯つぼにと運んでいたのです。
そんな明治三十九年九月十日、『加賀屋』は、この自然に恵まれた地に、創業致しました。和倉温泉十六軒目の宿でした。
加賀屋という屋号は、加賀の津幡出身というところからつけた名でしょうが、『加賀百万石』というと、天下に響く雄藩として広く知れ渡っていますから、それにあやかって、大きく飛躍したいという願いがこめられていたそうです。
明治も終り近くに、この地に開湯させていただいた加賀屋は、和倉の古い歴史からみれば、新参者。この地風にいえば、旅の人ともいわれかねないものです。しかし、和倉のもつ、さまざまな歴史とわかちがたく密着し、その土の上に咲いた湯の花だったのです。旅の人ではなく、この地に根を張り、土から命をくみとってこそ、咲き得たのだと思っています。
明治三年、湯の権利を庶民の手に戻してくれた住民四十四名、堅固な船着き場を造られた七海屋さん、埋めたてを進められた和歌崎さん、ポンプ送法による配湯システムを考えられた大井さん……。多くの先人達の身からしたたる汗が浸みこみ、いよいよ華やぎをましていった和倉温泉。加賀出身の創建者小田与吉郎の心の中にも浸みこみ、お蔭さまで八十年。能登らしさの典型ともいわれるようになったのです。